大學時代、恩師と勉強會を重ねてゐた時のことである。幕末の志士吉田松陰先生は「言と事が同じであることを『まこと』」と仰ったといふ。言ってゐることとやってゐることが同じである、それが『まこと』だと言ふのである。そして、「至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなり」といふ孟子の言葉に、その御生涯を全うされたのだと思はずにはゐられなかった。以來この「言と事」といふ言葉が、心から離れない。
人間、知識を得ると、途端に偉くなったやうな氣がするものだ。しかし、知識は洋服のやうなもので、氣に入らなくなれば、いつでも着替へる事が出來、いつでも人に見せることが出來る。また、他人の目さへ氣にしなければ、氣に入ったものしか着ないですむし、見せないですむ。では、人の智慧はどうであらうか。氣に入ったか氣に入らないか、見せたいか見せたくないかに關はらず、心を開いた間柄にならなければ、決して傳はることのないものであるまいか。
しからば、多くの知識を持った者と、僅かながらも智慧を育んだ者との差は、如何に現れるのか。私は、言葉によって現れると思ふ。
會議の席でも、何日も考へて出された言葉か、それとも思ひ付きで口をついたのか、慎重に聞いてゐると、どちらなのかがすぐに傳って來る。思ひ付きの言葉は、必ず辻褄が合はなくなるからだ。このやうな人は、「もっともな意見」を言ひ、人から尊敬の眼差しを集めようとするが、自分では決して動かない。思ひ付きの言葉に、責任など持ち合はせてゐないからだ。仕事の中での對應は簡單だ。こいつの話は口先だけで、聞くだけ時間の無駄。こんな奴に重要な仕事は任せられないから、何のかんの理由を付けて、そいつには大した仕事を回さない。勿論こちらの仕事が多くはなるが、取返しの付かない間違ひや、お客様に損害を與へるやうなこと、會社の信用に傷が付くやうなことをされるよりはましだ。ビジネスと割切って、しらぬ顏で徹するのがベターだ。
これが親しい間柄であったらどうであらうか。しかし、考へてみれば、何かについて、相手と心を開いて語り合ふこともなく、親しい間柄と言へるものだらうか。智慧が行き交ふ對話もないのに、まるで親しい間柄であるかのやうに振舞ふ人といふのが、世の中にはゐる。可哀想だが、そのやうな人は、相手の話をまともに聽く氣など初めからない。調子よく取り入ってくる相手に對しては、誰もが初めこそ親切にするだらうが、そいつが別の場では全く正反對のことを言ってゐるといふことを知ったら、非常に傷つくものだ。諫める程の深い付き合ひをしてゐたわけでもなし、ただの知合ひとして付き合ふことを心に留めるであらう。そして、この人と心を開いて、大事な話をしようなどとは、一切思はなくなるだらう。
このやうな相手を諫めることは、時間の無駄に終はることが多い。なぜなら彼らの口からは、「誤解です」「そんな積もりぢゃなかった」といふ言葉が、簡單に口をついて出てくるからだ。しかし考へてもみよ。「誤解です」「そんな積もりぢゃない」とは、「貴方の受取り方は間違ってゐる」といふことだ。ハナから、自分が間違ってゐるなどとは、少しも思ってゐないからこそ、簡單に出てくる言葉だ。こんな者は、相手に對して心など開いてはゐない。自分の話をしたいだけだ。
さらに、もしこのやうな人が、弁舌に長けてゐたら、きっとこのやうな事すら平氣で言ふであらう。「私と貴方は價値觀が違ひますが、好きなものは一緒です。この好きなものが發展するやう、協力すべきでせう」と。相手に對して失禮にも「價値觀が違ふ」と言ひ放っておきながら、協力しろとは傲慢そのものだ。もし、心を開いて相手と語り合ひ、智慧を育まうとする態度であったら、價値觀が違ふなどといふ言葉は口が裂けても出てこないであらう。しかし本人は、恐らくその言ひ放った言葉の意味にすら氣付いてゐない。それを指摘されれば、再び「それは誤解です」「そんな積もりでは・・・」と言ふであらう。
このやうな者の過ちは2つある。
・自分は間違ったことなど言ってゐないと思ってゐること ・自分は誠實であると思ってゐること
松陰先生のお言葉は、このやうにも聞こえて來る。
「事を成したければ、言葉を正しくしなさい。言葉を注意深く吟味することもなく、自分は誠實だ、などと思ってゐたら、事は決して成就しません。そんな傲慢な人を誰も相手にしなくなるからです。ましてや世の中が動くはずがありません。」
己の言葉に對する無責任。それは、他人に惡い影響を與へるばかりでなく、實は何より自己を欺き、自己に惡い影響を與へる行爲である。 テーマ:言霊(格言・名言・自分の考え) - ジャンル:学問・文化・芸術
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