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ユーフォニアムとカレーと仁義なき戦い
徒然なるままに
卒業の餞
 電車に乗ると、せっせと化粧をする人、携帯電話でいつまでも話をしてゐる人、他人に鞄をぶつけても知らん顔の人、大股を開いて席を占有している人、等々に出会します。困ったことに、この人達は、他人に迷惑をかけてゐるなどとは思ってゐません。注意をすると、「言はれる筋合はない」と言ひ出します。しかし、電車の中は公の場です。公の場に相応しくないことを注意するのに、筋合など関係ありません。さう、きっぱりと言へる大人が少なくなったと思ひます。公とは何か。それを知るのが、大人の重要な努めだと思ふのです。卒業おめでたう。立派な大人になって下さい。

− 平成18年度K小学校卒業記念文集に寄せて記す −

テーマ:卒業 - ジャンル:学校・教育

年頭所感「言と事(こととこと)」
 大學時代、恩師と勉強會を重ねてゐた時のことである。幕末の志士吉田松陰先生は「言と事が同じであることを『まこと』」と仰ったといふ。言ってゐることとやってゐることが同じである、それが『まこと』だと言ふのである。そして、「至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなり」といふ孟子の言葉に、その御生涯を全うされたのだと思はずにはゐられなかった。以來この「言と事」といふ言葉が、心から離れない。

 人間、知識を得ると、途端に偉くなったやうな氣がするものだ。しかし、知識は洋服のやうなもので、氣に入らなくなれば、いつでも着替へる事が出來、いつでも人に見せることが出來る。また、他人の目さへ氣にしなければ、氣に入ったものしか着ないですむし、見せないですむ。では、人の智慧はどうであらうか。氣に入ったか氣に入らないか、見せたいか見せたくないかに關はらず、心を開いた間柄にならなければ、決して傳はることのないものであるまいか。

 しからば、多くの知識を持った者と、僅かながらも智慧を育んだ者との差は、如何に現れるのか。私は、言葉によって現れると思ふ。

 會議の席でも、何日も考へて出された言葉か、それとも思ひ付きで口をついたのか、慎重に聞いてゐると、どちらなのかがすぐに傳って來る。思ひ付きの言葉は、必ず辻褄が合はなくなるからだ。このやうな人は、「もっともな意見」を言ひ、人から尊敬の眼差しを集めようとするが、自分では決して動かない。思ひ付きの言葉に、責任など持ち合はせてゐないからだ。仕事の中での對應は簡單だ。こいつの話は口先だけで、聞くだけ時間の無駄。こんな奴に重要な仕事は任せられないから、何のかんの理由を付けて、そいつには大した仕事を回さない。勿論こちらの仕事が多くはなるが、取返しの付かない間違ひや、お客様に損害を與へるやうなこと、會社の信用に傷が付くやうなことをされるよりはましだ。ビジネスと割切って、しらぬ顏で徹するのがベターだ。

 これが親しい間柄であったらどうであらうか。しかし、考へてみれば、何かについて、相手と心を開いて語り合ふこともなく、親しい間柄と言へるものだらうか。智慧が行き交ふ對話もないのに、まるで親しい間柄であるかのやうに振舞ふ人といふのが、世の中にはゐる。可哀想だが、そのやうな人は、相手の話をまともに聽く氣など初めからない。調子よく取り入ってくる相手に對しては、誰もが初めこそ親切にするだらうが、そいつが別の場では全く正反對のことを言ってゐるといふことを知ったら、非常に傷つくものだ。諫める程の深い付き合ひをしてゐたわけでもなし、ただの知合ひとして付き合ふことを心に留めるであらう。そして、この人と心を開いて、大事な話をしようなどとは、一切思はなくなるだらう。

 このやうな相手を諫めることは、時間の無駄に終はることが多い。なぜなら彼らの口からは、「誤解です」「そんな積もりぢゃなかった」といふ言葉が、簡單に口をついて出てくるからだ。しかし考へてもみよ。「誤解です」「そんな積もりぢゃない」とは、「貴方の受取り方は間違ってゐる」といふことだ。ハナから、自分が間違ってゐるなどとは、少しも思ってゐないからこそ、簡單に出てくる言葉だ。こんな者は、相手に對して心など開いてはゐない。自分の話をしたいだけだ。

 さらに、もしこのやうな人が、弁舌に長けてゐたら、きっとこのやうな事すら平氣で言ふであらう。「私と貴方は價値觀が違ひますが、好きなものは一緒です。この好きなものが發展するやう、協力すべきでせう」と。相手に對して失禮にも「價値觀が違ふ」と言ひ放っておきながら、協力しろとは傲慢そのものだ。もし、心を開いて相手と語り合ひ、智慧を育まうとする態度であったら、價値觀が違ふなどといふ言葉は口が裂けても出てこないであらう。しかし本人は、恐らくその言ひ放った言葉の意味にすら氣付いてゐない。それを指摘されれば、再び「それは誤解です」「そんな積もりでは・・・」と言ふであらう。

 このやうな者の過ちは2つある。

・自分は間違ったことなど言ってゐないと思ってゐること
・自分は誠實であると思ってゐること

 松陰先生のお言葉は、このやうにも聞こえて來る。

「事を成したければ、言葉を正しくしなさい。言葉を注意深く吟味することもなく、自分は誠實だ、などと思ってゐたら、事は決して成就しません。そんな傲慢な人を誰も相手にしなくなるからです。ましてや世の中が動くはずがありません。」

 己の言葉に對する無責任。それは、他人に惡い影響を與へるばかりでなく、實は何より自己を欺き、自己に惡い影響を與へる行爲である。

テーマ:言霊(格言・名言・自分の考え) - ジャンル:学問・文化・芸術

知らずに犯した罪
 お釋迦樣のお弟子さんに阿難といふ青年がゐた。ある時お釋迦樣に「知らずに犯した罪と、知ってゐて犯した罪とどちらが重いのか」と質問した。お釋迦樣の應へて曰く、「焼けた火箸を知らずに握りしめたのと、知って握りしめたのと、どちらが大火傷するか」と。

 「私は何も知らないから、恥づかしいことはなにもない」と、臆面もなく言ふ人は、實は、多くのことを知ってゐると思ひ込んでゐる人だ。なぜなら、本當に、自分は物事を知らないと知った人は、我が身を心から恥ぢるからだ。「恥づかしいことは何もない」と言ってゐる間は、まだ本當に恥づかしい思ひすらしてゐないのだ。

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

引き續き單位未履修
 今度は、某県の高校が、件の必修科目單位の虚偽申告に對する教育委員會からの度重なる調査に、「ウチはやってません」と報告してゐたものの、實は虚偽報告してゐたといふことが判明した。學校は「結果的に嘘をついたこととなり、生徒や保護者に申し譯なく思ってゐる」旨を發言。またかういふ言葉で「自分は惡くない」と、言ひ逃れをしてゐる。その根性がけしからん。「結果的」ではなく、「最初から」ではないか。

テーマ:出来事 - ジャンル:学校・教育

學校
 日本全國の各地の高校で、履修してゐない必修科目を、履修したものとして單位申請してゐたことが明らかになった。このままでは卒業できない在校生、およびこれで卒業してしまった卒業生達の処遇如何は、文部科學省なり、專門機關の指示に任せれば済む話だと思ふ。しかし、どうも氣に入らないのは、この行爲の張本人である、各校の先生方や生徒の態度、及びメディアの採り上げ方である。

「今の學習指導要領では、受驗勉強に用ゐる時間が大幅に削減されてしまふ」から、不正行爲を行った、といふコメントが、さもありなむといふ具合に各メディアで採り上げられてゐる。何が不正行爲か。カンニングは不正行爲だ。しかし、素人考へで恐縮だが、もし校長の責任で國や自治體に虚偽の單位申請をしたのなら、國公立學校の場合は、「有印公文書偽造(不實記載)」になってしまふのではないのか。もしさうなら、不正行爲ではなく、犯罪となるのではあるまいか。法律に詳しい方に是非訊いてみたい。

 それよりなにより、先生に裏切られた生徒の心は如何なるものか。ある校長は、「君たちの爲を思ってやった」、と全校生徒の前で言ったさうだ。その學校の先生方は、きっと姉歯元建築士と自治體の不正を叩いただらうし、東横イン社長の不正を叩いただらうし、我が國が行った戰爭をも不正なものとして叩いたことだらう(センター試驗にも出題されるくらゐだから)。もし、授業といふ滿座の席で人の不正を叩いておいて、自らが「相手の爲だ」と言って不正を働いてゐたら、一體何を正義だと教へたのか。

 いや、話はもっと單純だ「嘘をつくのは人として恥づかしいことだ」「人を騙すのは人として恥づかしいことだ」「こつこつやってゐる人がゐるのに、自分だけズルをするのは人として恥づかしいことだ」といふことを學校では教へる氣がないのか。

 先生がいじめに荷担して、生徒が自殺した事件もあった。この學校の管理者は「先生が手を抜いたからこのやうなことになってしまった」と、生徒の前で平氣で吐いたさうだ。なんと巫山戯た言葉か。手を抜くとは、本當はきちんと出來るが、今回は別のことに氣を取られて、それが出來なかった、といふ意味だ。出來ることなら、自殺した生徒に代りたい、といふ、胸の張り裂けむばかりの悔悟であったなら、このやうな言葉は、口が裂けても出てこないのではないか。教育者の言葉が亂れてゐる。言葉が亂れてゐるといふことは、心が亂れてゐるに相違ない。人は、言葉なしに考へることなど、出來ない。嘘だと思ったら、やってみれば解る。

「先生は、一生懸命、僕たちの幸せを願ってやってくれました。だから、僕たちは先生を信頼してゐたし、今も感謝してゐます。先生が僕たちのことを思ってして下ったことなのですから、その先生が間違ってゐるなら、僕たちも何かが間違ってゐたのです。先生の間違ひは、僕たちの間違ひです。すみませんでした。」といふ生徒の言葉は、編集でカットされてゐるのだらうか。生徒も先生も「文部科學省の指導要領がをかしい」と論ふ光景がメディアを席捲してゐる。最近の學校では、「言語道斷」といふ言葉すら教へてないらしい。

 寅さんが聽いたら、きっとかう言ふだらう。「なにぃ、こんだけのことをやっておいて、『ボク、判斷を誤りました』だと? テメエさしづめインテリだな!?」・・・

 ああ、もう俺ァ頭痛くなってきた。まくら、さくら取ってくれ。

 この度の不正の責任を取ったのか、自ら命を絶たった先生もをられたといふ。訃報を聞いて、胸にこみ上げるものがあった。全國の心ある先生方にこの拙文を御判讀頂きたい。

テーマ:出来事 - ジャンル:学校・教育