スポンサーサイト

  • --/--/--(--) --:--:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

後世に遺したい吹奏楽曲

  • 2009/12/28(月) 18:11:46

 時々、吹奏楽雑誌なんかで行はれる企画みたいですが、自分にとって「後世に遺したい吹奏楽曲」といったら、何だらうと思ひ、ざっと、書いてみることにしました。

 「古典序曲」フランソワ=ジョセフ・ゴセック作曲
 「ハルモニームジークのための序曲」フェリックス・メンデルスゾーン作曲
 「軍楽隊のための組曲 第一番、第二番」グスタフ・ホルスト作曲
 「リンカンシャーの花束」パーシー・グレインジャー作曲
 「交響曲 変ロ調」パウル・ヒンデミット作曲
 「主題と変奏」アーノルド・シェーンベルク作曲
 「ハンティングタワー」オットリーノ・レスピーギ作曲
 「ディオニソスの祭」フローラン・シュミット作曲
 「交響的断章」ヴァーツラフ・ネリベル作曲
 「カディッシュ」フランシス・マクベス作曲
 「ニューイングランド三部作」ウィリアム・シューマン作曲
 「ドルイド」ロルフ・ルーディン作曲

 一般の吹奏楽団では、なかなか採り上げられない曲が多いですね。リードもスパークも天野なんとかも樽谷なんとかも八木澤なんとかも入ってゐません。かういふ曲を演奏会の候補に勧めても、「オタク」と思われるのがオチです。

 ただなんとはなしに「お客が飽きるから、一般の人が知ってさうな曲や、親しみやすさうな曲が良い」といふ風に思はれるのでせうが、実際はどうなのでしょう。

 そのやうな意見に疑問を呈すと、「自分達が楽しむためにやってるものを、わざわざ聴きにきてもらうんだから、聞きやすいものの方が良い」といふ意見に集約されてきます。これは、もう、演奏会=発表会、学芸会、お遊戯会といふ発想が根底にあります。どの曲でも、全員が「乗り番」といふのも、この発想のお陰です。

 つまり、楽団員が、素人ながらにも芸術作品に触れて、日曜芸術家としてそれを演じたいといふよりは、自分達が楽器を吹くことを楽しむための時間にしたいといふ趣が強いのです。それなのに「お客が聞きやすい曲」をやるべきだと考へるのは、「お客のため」と言ひながら、本当はお客のことなど二の次にしてゐる上に、さらにそのことに気づいてゐない(故意に気づかうとしないのか?)、といふ二つの問題があるのではないかと思ひます。

 と、まぁ、このやうなことが選曲会議や、飲み会などで出てくると、必ず「いいぢゃん、やりたいやうにやれば、みんな考へは違ふんだし」とさえぎる人がゐます。しかし、問題は、その「違ふ考へ」は多数決で消えてしまひ、廃棄されるだけ、といふことなのです。例へば、「やりたいやうにやった」結果が、芸術に見向きもしない方向に行ってゐて、少なからず芸術といふもの、表現といふものを考へて活動したい人のやりたいようには、少しもなってゐないといふことにもなるわけです。大体、やりたいやうにやってゐる人ほど「やりたいやうにやればいいぢゃん」と言ってゐるのですから、本当に身も蓋もありません。

 そんなことが、どこの楽団でもあるのではないかと思います。本当は、一度、格好いいうたひ文句無しに、腹を割って「如何に取り組みたいか」を考へてみる必要があるのでせうね。それで、自分の方向と、楽団の目指してゐる方向が合はなければ、そこで無理して続ける必要もないわけです。

 ピカソの絵はわかり難い絵ですが、特別展が開催されれば、絵なんか普段見ない人だって美術館の前に並ぶわけです。わからないけれども、作者の何かを感じたくて、わざわざ来るわけです。で、見るけれどやっぱりわからない。しかし、お客が駅までの道すがら、ありゃ一体何を表現しようとしたのか、と思ひながら帰ったのであれば、それは芸術として成功したといふことなのかもしれません。

 「指揮者の先生に怒られるから」「文句を言ふ人がゐるから」といふことではなしに、「お客さんや作曲者のためにピッチやアインザッツや表現を訓練してゐる」、そんな風に考へて活動してゐる楽団なんて、ないのでせうかね。

スポンサーサイト

この記事に対するトラックバック

この記事のトラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事に対するコメント

コメント投稿

管理者にだけ表示を許可する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。