感情的な判断と理性的な判断
- 2011/03/31(木) 20:32:30
この頃よく考へてゐることなので、取り急ぎクリップ。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0321&f=national_0321_202.shtml
Searchina 2011/03/21(月) 20:14
台湾メディアの中国時報はこのほど、社説を掲載し、「西洋人にとって、理性的な判断は感情的な判断に勝るが、東洋人にとっての理性的判断は感情的な判断のうえに成り立つため、福島第1原子力発電所で決死の作業を『非理性的』と判断するが、東洋人は「ダメだと分かっていてもやらねばならないと捉えるのだ』と論じた。
福島原発事故で作業員が懸命の作業を続けているというニュースは、多くの国で報じられ、多くの人を感動させた。しかし、米国では日本政府の行動が遅すぎたと批判があがり、ある専門家は「これは神風特攻隊に等しい自殺的任務で、どんなに努力しても放射線漏れを防ぐことはできない」と主張した。
記事は、「西洋人にとって理性的な判断は感情的な判断に勝るが、東洋人にとっての理性的な判断は感情的な判断の上に成り立っている。だから米国の専門家は原発で作業を行うという『自殺的な任務』を非理性的と批判するが、東洋人は『ダメだと分かっていてもやらねばならない』と捉えるのだ」と主張した。(編集担当:畠山栄)
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反反日
- 2010/09/18(土) 21:15:03
民主党政権となって、民主党議員やその言動を反日だの國賊だのと罵り、ウェブサイトや掲示板を汚い言葉で埋め尽くす、品性のかけらもない輩をよく見かけるやうなった。
しかし、さう罵る彼らが、本当のところ何を信じてゐるのかが、私には全く傳はってこない。反自民党として結束してゐた民主党には綱領がないと聞いたが、もしさうなら、それによく似てゐる。たとへ「反反日」の者達が結束して実権を握ったとしても、それは「反日勢力」に「対抗する」といふ、ただその点だけが彼らの紐帯なのだから、さて政権を取ったものの、力をあはせて一体何をどうしたものか、途方にくれるのではあるまいか。それなら、今と根本的な状況は変はるまい、と思ったりするのだ。
10年ほど前だったらうか、ある史観を大々的にアピールした団体があった。保守派と称する学者や教師が名前を連ね、各地で決起集会を行ったり、新しい歴史教科書の出版を世に呼びかけたりしてゐた。大変意義深い功績もあるにはあったのだが、私は、その時も同じやうな気持ちだった。「自虐史観からの脱却」などと声高に主義主張を唱へる彼らの代表が、本当のところ、一体何を大事にしたいのかが、たうとう私には傳はって來なかったのだ。単にプロパガンダに対抗する、「反プロパガンダ」といふプロパガンダを繰り広げてゐるやうに感じたのだ。
やがてこの団体は、独裁的代表者の横暴な人事や運営により、内部分裂を繰り返したらしく、すっかり鳴りを潜めてしまった感がある。心ある方もいらしただけに、残念なことだが、またやむを得なかったことなのかもしれない。
「君達の自己欺瞞がつづき、君達のイデオロギイが正義の面を被ってゐられるのも、敵對するイデオロギイを持った集團が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮らさねばならぬ時が來たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互に爭ひ出すに決ってゐる。」(小林秀雄「プラトンの『國家』」)
我が身を振り返ってみても、反發すること自体に、それほど大した意味はない。何が大事だから反發するのか、つまりは自分は本当のところ何を大事にせざるを得ないのかを、本当によく知ることは、決して簡単な、生易しいことではないにも関らず、それはすでに自明のこととして反發にいそしむところに、彼らの怠惰な精神と、獣性が見え隠れする。
自問自答の達人こそが、意味のある反發をするのではないかと考へる、今日この頃である。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/441503/
http://seiji.yahoo.co.jp/close_up/100/detail.html
こんなことは、去年の衆議院議員選挙以前に、十分予測が出来たことではないか。人事がをかしいのではなく、國民が選択を誤ったのだ。取り返しはつかない。いまさら騒いだって遅い。
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信用できない人
- 2010/04/24(土) 09:16:50
問ひ詰められれば、「責任を持って取り組む所存」「責任を感じてゐる」「責任を果たす」。あれやこれや、責任といふ言葉を使ってゐても、肝心の一言、「責任を取ります」を言はない人。その時點で、「上手いこと言ってるが信用できない人」だと思ふものです。
案の定、「国民との契約だ。必ず実現する。もし4年たって政策が達成されていないと思われたら当然、政治家として責任は取る」と言った人がゐましたが、1年も絶たないのに、すでに公約はボロボロです。今度のGWは高速道路無料にならないの? え?値上げになる!? ってな具合で、とても4年後に責任を取るとは思へません。「公約を掲げた頃とは情勢が大きく變ったので、必ずしも當時の公約通りにすることが、國民の利益とは限らない」と、平氣で言ってのけることでせう。「必ずしも」、この言葉を多用する人も、信用されなくなりますね。
どうも、世間の現政権に對する憤懣、イライラ、諦めは、首相が「實現できない」ことに對してではないのでせう。さんざん「責任を取って辞職せよ!」と他人をいびってきた者が自らの失敗には一切責任を取らうとせず、言ひ逃ればかりしてゐるのです。
つまり、他人に對して「責任を取れ」と言ふときには、當然「責任を取る=辞する」ものとして氣勢をあげる者が、自らの「責任」に言及した時には、「必ずしも辞する意味とは限らない」としてゐるのです。
我が國の首相は、責任といふ重い言葉を、軽々しく使ってゐる人物だといふことが、よく見えてきました。そんな人物に對して、人として許せない怒りや軽蔑が、國民の心中から沸いてゐるのではないでせうか。誰でも「嘘つき」の「ええ格好しい」は、心底嫌ひなのです。今後この人が「責任」といふ言葉を用ゐて、自分の覚悟をいくら表明しても、もう信用することが出來ないのです。
そんな調子だから、軍事同盟を結ぶ他國の大統領から、わづか10分ほどの會談で、「きちんと責任取れるのか」と突きつけられてしまふのです。責任をもって取り組んでゐると言ふ我が國の首相に對して、「だが、何にも進んでゐないぢゃないか」と言ったとききます。
「一生懸命やりました」で許されるのは、子供のお遊戯會までです。「一生懸命やりました」ではすまないから、誰もが必死に結果を出して、毎日毎日、格好いいことも言はず、なんとか生きてゐるのです。何も特別ではなく、當たり前の日常です。「民意を國政に」と言ひながら、「國民感情」を逆撫でるやうなことを、シャーシャーとやってのけるのですから、そりゃ支持率だって下がりますね。むしろ前政権より評判惡くなるのもやむを得ません。
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教育について
- 2010/04/20(火) 17:35:12
今から20年以上前、私が大學の教職課程を履修してゐた頃は、アメリカにおける自由主義的教育方法を優れたものとする風潮があった。「オープンスクール」や「單位制」の導入などは、子供の自主性を育み、社會における主體性を持った市民を生み出す、優れた教育方法だといふ雰圍氣で、それに疑問を差し挟めば、たちどころに保守派と見られるやうな、どうもそんな雰圍氣があったやうに記憶してゐる。
公立高等學校においては、「單位制導入」「專門コース選擇制の導入」の學校が出現し、實施する學校の入試倍率が跳ね上がった。また義務教育の場でも、「オープンスクールの導入」「チャイムの廃止」「男女混合の出席表作成」「始業終業の起立・禮の廃止」「整列・點呼・基本教練(気をつけ、回れ右など)の廃止」などが次々に圖られて行った。
そのいづれもが、生徒の意思や自主性を何よりも重視し、尊重すべきで、教師はその手助けをするに過ぎないといふ考へに基づくのだが、さうした教育方法こそ「優れたもの」「進んだもの」とする趣が、マスコミの報道にもあったことを覺えてゐる。
當時の風潮からしたら、言ふまでもなく、アメリカの教育の根本は民主主義社會における個人の確立の實現であり、かつての日本の教育方法は全體主義國家における誤った教育方法であると斷定して、これらを對比させ、アメリカの教育方法の正當性を主張してゐたのだった。
しかし、いづれも、「日本はかつて云々」「アメリカでは以前からこのやうに云々」といふ科白が出てくることに、なんとはなしに腹が立ったものだった。それは、別に私がアメリカが嫌いだといふわけではなく、「優れたもの」として日本で採用されつつあるアメリカの教育方法を、そんなに優れたものだとは思へなかったからである。
その當時、テレビの深夜放送が開始された。主に海外のニュース番組だったが、退屈しのぎにそのやうなものを見てゐると、優れた教育方法を持つはずのアメリカで、當時の日本では考へられないやうな事件が家庭内や兒童に頻發してをり、社會の大きな問題になってゐることを知った。
・離婚者數の激増とそれに伴う訴訟の増大
・親権者の育兒放棄と死に至るまでの虐待
・しつけの崩壊
・授業崩壊や教師への傷害事件
・近親相姦
・性交渉の低年齢化
・非合法薬物依存の蔓延と低年齢化
・猟奇殺人犯の低年齢化
・適応障害児童の増加
日本では、アメリカのこのやうな事件はあまり問題視されなかった。日本にそのやうな「異常な犯罪」事件は少なく、他の國の、「極度に發展したが故の社會現象」として論ふ向きが殆どで、問題の根本にあるものについては、まづ議論されることもなかったやうに思ふ。まさかそんな事件が、この日本で毎日頻繁に起こるやうになるとは、思ってもみなかったのであらう。日本では、なんと言っても、アメリカの市民が起こす悲惨な事件と言へば「銃による犯罪」であり、それはアメリカの「銃社會」に原因があるやうな論調が壓倒的であった。まるで銃さへなければ事は解決するかのやうな、お目出度い結論を導いてゐたやうに思ふ。
海外のニュースは、アメリカの悲惨な數々の事件について、その根本にある「家族の絆の断絶」に的を絞ってゐたやうに思ふ。家族の絆を取り戻す教育や活動の再檢討を促すプログラムや、實施してゐる機關のレポートなどが、連日報道されてゐた。
教育先進國だと思はれてゐたアメリカで、そのやうな事態になってゐるのなら、その教育方法を採り入れれば、日本もやがて同じ事態になる。その警鐘を鳴らしてゐたのは、ごく一部の識者に過ぎず、私の記憶では、八木秀次氏も、さうしたお一人だった。
當然、「家族や社會や國家の呪縛から少しでも離れ、個人を確立させることこそが眞の民主主義であり、人類の理想である」といふ考へ方を推し進めようとしてゐた日本のインテリや教育者は、アメリカの現實から國民の目を反らす必要があった。しかし、それは實に簡單だった。
要するに、新しい教育方法を吟味させなければよいのだ。「かつての日本の教育は、軍國主義的國民を作り上げるためのものだった、そもそも日本にはまともに教育と呼べるやうなものはない」と斷罪することで、自己の立脚するものを破壊し、そもそも自分には立脚するものなどなかったのだと思はせる、マインドコントロールを實施するである。そして、「今あるのは、軍國主義教育の名殘だけで、これを完全に拂拭するところから新しい教育が始まる」といふ美名の元に、新しい教育方法がさも優れたものであるかのやうに刷り込んでかかればよいのだ。テレビ・ラジオ・新聞・雑誌などのメディアは、彼らの重要なツールであった。
過去の惡い教育か、先進國の優れた教育か、國民にどちらかを選ばせるようにし向ければよいのである。おそらく、私が腹立たしく思ってゐたのは、教育といふ大事を、そのやうな姑息な手段を用ゐて方向付けようとしてゐたことに對してだったのだらうと思ふ。
結局、當時アメリカのインテリが個人主義の反省と家族の絆を深める教育を求めてゐたのに對し、日本のインテリは既にアメリカで失敗した教育方法を、さも先進的なものとして採り入れたのである。
さて、それから20年以上が經ち、下は、今日のYahoo!ニュースの「児童虐待」のリンク先に出た一覧だ。
* 現場から記者リポート:児童虐待の相談急増 早期の情報把握を /滋賀(毎日新聞)20日 - 13時44分
* 暴行:県立児童福祉施設の職員が男児を 9人に18件確認 /静岡(毎日新聞)20日 - 11時23分
* <虐待>同居の4歳女児殴る 26歳の男を容疑で逮捕 大阪(毎日新聞)20日 - 10時28分
* 県立養護施設で職員の児童虐待18件 静岡県が発表(産経新聞)20日 - 7時57分
* 「生徒指導提要」30年ぶり抜本改定 「ネットいじめ」「虐待問題」対応(産経新聞)19日 - 12時15分
* 性的虐待、56%が1年以上…実父最多34%(読売新聞)19日 - 8時33分
* 大阪市の虐待通報、前年度比の1・5倍に 児相の人手不足深刻(産経新聞)19日 - 3時10分
* <福岡3歳児虐待>31歳継父も逮捕、浴槽に監禁容疑(毎日新聞)17日 - 19時53分
* 3歳女児を浴槽に監禁容疑=同居の夫逮捕、夫婦で虐待か-福岡県警(時事通信)17日 - 19時39分
* 3歳娘、浴槽に縛り付けて監禁…父親も逮捕(読売新聞)17日 - 17時35分
耳をふさぎ、目を背けたくなるような事件が、よくもまぁこんなに毎日途切れることもなく起きてゐるものだ。虐待をした親の年齢を見ると、生徒の自主性を何よりも重んじようとした個人主義教育が推し進められた世代のやうだ。これは單なる偶然か、それともまだ「發展したが故の社會現象」と言ふのだらうか。
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言葉尻
- 2010/03/03(水) 10:01:08
浅薄な知識を前提に、大言壮語を放つ者がゐる。間違ひを指摘すると、「言葉尻を捉へてゐるだけで、本質を捉へてゐない」だの、「揚げ足取りでは、本質は捉へられない」と逆ギレ反論してくるものが多い。でかいことを言ふ人ほどさうだ。
馬鹿馬鹿しい話だ。そんなに本質を傳へたいのなら、言葉尻を捉へられたり、揚げ足を取られるやうな言葉を、不用意に發するなかれ。そして、その指摘された間違ひは、實は本質をまるで導き得てゐないことを證するものであるにも關らず、それに氣付かず、狼狽してさらなる正論を語らうとするなかれ。
60を過ぎた、人生の先輩であるやうな人が、こんなことを無邪気にやらかしてゐるのだから、戰後、我が國が如何に智慧といふものをないがしろにしてきたか、と思ひ知る。胸が張り裂けるやうな思ひだ。老人がトチ狂ってゐる。それもインテリを装ふ者ほど。
要は「俺はこんなにも優れたことを言ひたいのだから、それをわかってくれりゃいいんだ」と言ってゐるに過ぎない。その「こんなにも優れたこと」が、本當に優れてゐるのかどうかを疑ふ知性を持ち合はせてゐない、そしてそこに気がついてゐないところに、彼らの最大の無知がある。
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